20th『シンクロニシティ』の意味を解釈 -語り手の思考が丁寧に説明される美しき傑作-

乃木坂46
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20thシングル表題曲『シンクロニシティ』はどんな曲?

20thシングル表題曲『シンクロニシティ』では、白石麻衣さんがセンターを務め、このシングルで卒業となった生駒里奈さんは2列目中央の位置に入っています。 また、2018年のレコード大賞を受賞し、乃木坂46を代表する楽曲になりました。 「卒業シングルにはしたくない」と生駒里奈さんが語ったこの曲はどのような意味を持っているのでしょうか。

乃木坂46 『シンクロニシティ』

1番のAメロ・Bメロ -語り手→見ず知らずの人 の気持ちの伝達-

悲しい出来事があると 僕は一人で
夜の街をただひたすら歩くんだ
背中丸め俯(うつむ)いて 行く当てなんかないのに
雑踏のその中を彷徨(さまよ)う

キープゴーイング(ウォウ…)
キープゴーイング(ウォウ…)

すれ違う見ず知らずの人よ 事情は知らなくてもいいんだ
少しだけこの痛みを感じてくれないか? 信号を待つ間にちょっとだけ時間をいいかい?
この気持ちがわかるはずだシンクロニシティ

乃木坂46 『シンクロニシティ』

語り手の静かなモノローグで楽曲が始まります。 「〜ると、〜だ」と語られていることから、「悲しい出来事がある→夜の街を一人歩く」という事象はたった今語り手の身に起こっているのではなく、過去に何度も語り手が経験したことであると言えます。 そして、語り手は意識的かどうかは別として、「悲しい出来事」への応答として「夜の街を一人歩く」ことを自身のルールとして決めています。

その点において、必ずしも今、語り手が夜の街の中にいるとは言えません。 今日もまたルールに従って夜の街へとやってきてこれを歌っていると考えることもできますし、無関係のどこかで自身の行動パターンを歌っていると考えることもできるのです。

では、語り手が悲しい出来事によって夜の街に出たくなるのはなぜか?それは続くBメロで語られます。
夜の街で「すれ違う見ず知らずの人」たち。彼らは語り手の身に起こった悲しい出来事(=事情)を知ることはないでしょう。
しかし事情は知らずとも、語り手の心にある「痛み」は彼らにも感じられます。 どんな出来事によって悲しいのかというコンテクストは別として、語り手の気持ちは、雑踏を構成する一人ひとりに伝達される

ここではそれ以上は語られていませんが、それにより悲しみが薄まっていく気がするという内容がのちにCメロで登場します。

1番のサビ -そばにいる誰か→語り手 の気持ちの伝達-

きっと
誰だって 誰だってあるだろう
ふいに気づいたら泣いてること
理由なんて何も 思い当たらずに
涙が溢(こぼ)れる

それは
そばにいる そばにいる誰かのせい
言葉を交わしていなくても
心が勝手に共鳴するんだ
愛を分け合って
ハモれ(ウォウ…)
ハモれ(ウォウ…)

乃木坂46 『シンクロニシティ』

ここまでの内容を一旦置いておいて、語り手の話はまた別の現象へと展開されます。
それは「ふいに気づいたら泣いてる」という現象。そしてこれは「誰だってあるだろう」という切り口で、語り手はこの現象を一般化しています。この一般化は人はみんな「誰だって」対象となっており、私たち聴き手も含まれると考えられます。

大きすぎる精神的ダメージを受けたとき、ヒトは思考を停止することでダメージから心を守ります。「ふいに泣いてる人」は心にショックを受けているが、そのショックのあまりの大きさ故にそれを捉えきれない。だから、理由が思い当たらないのです。 しかし肉体の反応としては涙が溢れてきてしまう。

この現象の理由について、語り手は、「そばにいる誰かのせい」という別の解釈を展開しています。 と言っても、もちろんそばにいる他人にぶたれたからではありません。 悲しみを抱えた「そばにいる誰か」の心と、自分の心が、「勝手に共鳴する」ことによって、自分も悲しくなってくる。 これが不意の涙の原因であると説きます。

AメロBメロでは、語り手の悲しみが、見ず知らずの人へと伝達されていく様子が歌われました。サビでは同じ現象について、伝達される側に立って描写されます。 さらに、伝達される側になることは、「誰だってあるだろう」と一般化されています。

2番 -遠くの人との”気持ちの伝達”-

みんなが信じてないこの世の中も
思ってるより愛に溢(あふ)れてるよ
近づいて「どうしたの?」と聞いて来ないけど
世界中の人が誰かのこと思い浮かべ
遠くのしあわせ願うシンクロニシティ

だから
一人では 一人では負けそうな
突然やって来る悲しみさえ
一緒に泣く 誰かがいて
乗り越えられるんだ
ずっと
お互いに お互いに思いやれば
いつしか心は一つになる
横断歩道で隣り合わせた
他人同士でも
偶然…

乃木坂46 『シンクロニシティ』

2番はBメロから始まります。 1番では”気持ちの伝達”の対象として、隣り合わせた見ず知らずの人が選ばれましたが、2番ではさらに「世界中の人」に話を発展させています。
これは1番のサビで「誰だってあるだろう」と一般化したのと同じことですが、問いかけの形を取らないことで、自分もそれに含まれるという意識を聴き手に持たせることなく、単に”気持ちの伝達”の対象を広げています。

また2番のサビでは新たに、”気持ちの伝達”によって悲しみを乗り越えることができるということに言及されています。 いよいよここまで前置きとして説明されてきた”気持ちの伝達”という現象が、悲しみを乗り越えるための物事の捉え方として意味を持ち始めます。
そしてこの現象は、世界中の人との間で、そして全くの他人同士でも起こり得ます。空間的距離・心理的距離の離れた相手との間にも起こりうる現象であると主張されています。 ここでの「横断歩道で隣り合わせた他人同士」という表現は、心理的距離の離れた相手の象徴として、1番のAメロの内容を聴き手に想起させる効果を持ちます。

Cメロ -悲しみが共有される意識-

抱え込んだ憂鬱とか
胸の痛みも76億分の一になった気がする

乃木坂46 『シンクロニシティ』

“気持ちの伝達”は一方向性か、双方向性か。

1番Aメロでは”from語り手”の一方向の”気持ちの伝達”が歌われています。また1番サビでも全体として”toward語り手”の一方向の”気持ちの伝達”が歌われています。 ここで伝達する側と伝達される側での最も大きな違いは、悲しみの自覚の有無でしょう。 伝達する側は自分に悲しい出来事があったことを自覚しています。一方、伝達される側では、「ふいに気づいたら泣いてる」ことから、悲しみを自覚していません。

では、このような違いがあることから、”気持ちの伝達”は一方向に起こるものと言えるのでしょうか?

結論から言うと、私の解釈では、”語り手は’気持ちの伝達’は同時双方向に起こるものと解釈している“と考えます。
ここで言う同時双方向とは、気持ちを伝達する側の人がある時は伝達される側になる、という単なる双方向性を超えて、ある人がある時点において、気持ちを伝達する側でありかつ伝達される側であることができることを意味します。

これには3つの理由があります。
第一に、散見される双方向性の表現です。2番に入ると「お互いに思いやれば」、「心は一つに」などの双方向の”気持ちの共鳴”を示唆する表現が見られます。 このことは語り手が”気持ちの伝達”の同時双方向性を仮定している根拠となります。
第二に、双方向性を仮定しないとCメロの悲しみが「76億分の一」に感じられると言う表現につながりづらいということです。これについては次の項で述べています。
第三に、「シンクロニシティ」という単語の効果です。 偶然の一致ですから、偶然横断歩道で隣り合った悲しみを持った2人は等価でなくてはいけません。つまり、この2人の関係は語り手による”気持ちの伝達理論”においても等価でなくてはならないのです。 そのため、”気持ちの伝達”がその場において伝達する側と伝達される側に分かれていると解釈するのはそぐいません。また、「シンクロニシティ」の言葉が与えているイメージについては本記事の最後に述べています。

これらの理由から”気持ちの伝達”の同時双方向性を認めます。
それではなぜ、1番で悲しみの自覚の有無に違いが生まれるような描写がなされたのでしょうか? 一つの理由として、1番AメロBメロの内容は語り手の体験を一例として挙げただけで一般化されていないことがあります。 また、悲しみの自覚がある人を相手とした”気持ちの伝達”も起こっているものの、その涙は自分の悲しみによるものか、”気持ちの伝達”の結果か、区別できません。 このことは、語り手の考え方を我々聴き手に納得させるには障壁となります。 そのため、導入としての効果を持つ1番での2つの例示では登場しなかったと考えられます。
実際、この涙の原因が”区別できない”という状況は、Cメロにおいて悲しみが人類共通の一つと捉える大きな理由となります。

なぜ「痛み」が「76億分の一になった気がする」?

双方向の”気持ちの伝達”によってが世界中の人と心が同じになっているという認識ができました。 その中では、自分は共有された気持ちの発信者であり、受信者である(同時双方向性)という意識で、自分の「憂鬱」や「痛み」を捉えることになります。

すると、その気持ちは自分のものでありつつも、同時に人類みんなで一つのものであるという意識が生まれてきます。
そして、「76億分の一になった気がする」ということです。(76億=地球人口)

自分発信の”気持ちの伝達”だけを仮定した場合では、自身の悲しみが全地球に伝わっただけで、それが”みんなの”悲しみであるという認識が生まれてきません。
自分の悲しみがみんなに伝わり、みんなの悲しみが同時に自分に伝わってくる。この同時双方向性を仮定した、自分と人びとを等価に捉えた枠組みの中でのみ、悲しみを共有された一つとする認識が生まれると考えられます。

落ちサビ〜大サビ〜Aメロ -“気持ちの伝達理論”から涙を肯定的に捉える-

きっと
誰だって 誰だってあるだろう
ふいに気づいたら泣いてること
理由なんて何も 思い当たらずに
涙が溢(こぼ)れる
それは
そばにいる そばにいる誰かのせい
言葉を交わしていなくても
心が勝手に共鳴するんだ
愛を分け合って
ハモれ(ウォウ…)
ハモれ(ウォウ…)
ハモれ

泣いてる人のために 僕もどこかで
何も気づかず そっと涙流したい

乃木坂46 『シンクロニシティ』

半音上への転調後、落ちサビと大サビの内容は1番のサビの繰り返しとなっています。その後、この楽曲では2番ではカットされていたAメロが最後に印象的に登場します。

「泣いてる人のために」自分が涙を流したい。「何も気づかず」。
これは1番のサビで歌われていた描写と重なります。自分が涙を流すことは他人の悲しみをみんなで分担していることです。
しかし同時に、ここまでの語り手の考えを鑑みると、「泣いてる人のため」と思いながら涙を流すことは、同時に「自分の悲しみは共有されているという救いを得るため」でもあるのです。

「ハモれ」-自発的なことを主体性を持った語句で表現する-

“気持ちの共鳴”は「勝手に」起こることである。少なくともこの部分においては、語り手の論旨は一貫しています。 しかし、その様子の端的な表現がなぜ命令形の「ハモれ」なのでしょうか?そして命令の対象は何なのでしょう?

私の解釈では、「ハモれ」の対象は、”共鳴していく心”です。
自発的な心の共鳴に対してハモれという命令形を用いることで、(一方では自発的なものであると理解しつつ、)心は主体的に共鳴していく存在として擬人化されます。そして、そこに語り手の希望的な感情が表現されます。

実はこれはよくある表現で、例えば「風よ吹け」や「夜よ明けろ」と言ったものと同じに考えてよいでしょう。楽曲を通して緻密に積み上げられてきた主題が「ハモれ」の3文字で語られる。これは非常に気持ちが良い擬人化と言えるでしょう。タイトル「ハモれ」でもいいくらいです。

ぱっと聞いた感じでは「ハモれ」の対象が人びとであるようにも聞こえます。 しかしながら、実際に共鳴するのは人びとではなくその心ですし、現象を発見した語り手を除く多くの人びとにとってこの現象は無自覚でしょうから、そこを対象に命令形を用いているというのには無理があろうかと思われます。

「シンクロニシティ」が指すものは何か?

「シンクロニシティ」とは”意味のある偶然の一致”。この言葉は楽曲中でどのような意味を持つのでしょう?
心がハモり、「いつしか一つになる」。この過程は確かに心が”シンクロ”していく様子として映ります。しかし「シンクロニシティ」の原義とは明らかに異なります。

ここで、一旦絶対的な”気持ちの伝達理論”から離れて状況を俯瞰してみましょう。”気持ちが伝達していくから”という語り手の主張する原理を捨て、フラットな視点で現象だけを追っていきます。

悲しみにくれる語り手は夜の街の横断歩道で、見知らぬ人と隣り合わせる。信号を待つ短い間に、語り手の心と見知らぬ人の心は「一つ」になった。見知らぬ人には語り手の事情は知れていないが、気持ちは同じになっている。

語り手はこの現象が起こった理由として、ここまで理解してきたような”気持ちの伝達理論”を提示しているわけです。しかし(残念ながら?)、そのようなことは現実には起こらないことを我々は知っています。 ではなぜこのようなことが起こるのか。

それは、悲しみにくれる語り手と、別の理由で涙を流しているとある人が、”偶然の一致”によって隣り合わせになったから。
その偶然に、なんらかの”意味がある”と人は考えてしまうものです。

語り手の場合はそこに”共鳴し一つになっていく過程”を見出しました。この楽曲ではこの様子を「シンクロニシティ」という言葉に託すことで語り手の主張から一歩引いた位置にタイトルを設定しているのではないでしょうか?

実際のところ、「シンクロニシティ」の語が何を指すかについては判断が難しいところです。この考え方は鑑賞の1つとしてみなさんに提示するに留めようと思います。
(そのため、ここまでの解釈を積み重ねるにあたって「シンクロニシティ」の語を意図的に避けてきました)

「シンクロニシティ」の単語は語り手の気持ちが高ぶったBメロからサビへのブリッジで登場します。
ですから、まず「シンクロニシティ」という部分にどれだけ語り手の意思を見るかについて解釈の揺らぎがあります。
語り手の言葉として見ると、おそらく語り手は、

“‘気持ちの伝達理論’を見つけるという営み” ∈ “シンクロニシティの存在を信じること”

という考えがあって、ここで楽曲全体の物語を「シンクロニシティ」という言葉煮込めていると考えられます。
「シンクロニシティ」という言葉が、語り手が感じた運命性を示しているように思えます。

一方、語り手の影を少し薄く捉え、ブリッジにこの曲のモチーフとしての現象名が登場していると考えることもできます(つまり語り手の言葉としての性格よりも作詞者の言葉としての性格が強い)。

これらのことから、私はこの問題は大いに鑑賞の範疇であると考えています。

ああ難しい。

心の共鳴現象は偶然であり、同時に”気持ちの伝達理論”の結果であるという考え方

本当に”気持ちの伝達理論”は”偶然の一致”のただの拡大解釈であり、語り手による誤謬に過ぎないのでしょうか?
その意味においては、この楽曲は救いようもない主題を持っていることになってしまいます。 しかし、そうではありません。

心の共鳴現象の正体は偶然です。これはまぎれもない事実です。
しかしそれを認識しながらにして、我々は同時に自身の涙が他者に伝わっていくことを感じ、ふと溢れた涙を「そばにいる誰かのせい」と感じ、自分の悲しみを「世界中の人」で共有された一つと認識することは可能でしょう。

これは、私たちの世界で言う、「〜ってことにしておく」のスタンスと全く同じものです。

「プレゼントをくれたのは両親であると知っているけれど、サンタクロースが持ってきてくれた”ってことにしておく”」
「自分の行動に後から自分が後ろめたさを感じることがないように、お天道様がいつも自分を見ている”ってことにしておく”」
「本気で信じてはいないけれど、引き寄せの法則で仕事が決まった”ってことにしておく”」
これらと同じように、
「本当はただの偶然だって知っているけれど、心は共鳴していく”ってことにしておく”」。
そう考えることで、溢れた涙は自分の悲しみだけによるものじゃない、みんなで一つの悲しみなんだ。と考えることができて、心がラクになる。語り手は一つの悲しみを受け流すための考え方として紹介しているのでしょう。

私はなんとなく、語り手自身も本気で”気持ちの伝達理論”を信じていることはないような気がします。

“ってことにしておく”。これは行きすぎると宗教的になってしまいますが、用量用法を守れば、楽に行きていくための道具になるものですから。

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